働き方ノート Vol.10 松浦由佳先生

2022.05.26

初めて、「面白い、学び続けたい」と思える学問に出会った気がした。

■ 仕事編

診療放射線技師になった動機、やりがい

Stanford大学時代の研究室メンバー
 普段は集合写真を撮ることがほとんどない研究室において、メンバー勢揃いの数少ない写真です。
 私の帰国に際して、ラボメンバー(+α) で集合写真を撮影しました。コラボレーターを含め、日本、台湾、中国、韓国、ベトナム、インド、タイ、ギリシャ、ドイツ、フランス、チェコ、メキシコ、ニカラグアそしてアメリカと、世界中から集まったメンバーと仕事をさせて頂いたことは私の財産です。

 思い返してみれば、私が医療に興味を持ったのは小学生の頃でした。自閉症の従兄の近くにいた影響があったのかもしれません。非日本語話者とのコミュニケーションに興味があった当時の私にとって、自力で習得できる日本語(口話)以外の言語は、点字と日本語対応手話でした。それらを独学で勉強しているうちに、興味の対象は外国語や福祉さらに医療へと広がり、後に医療の道を志すようになりました。日本の医学部ではなく、米国のメディカルスクール(米国の医学教育は、大学医学部ではなく、大学卒業後に医学校で行われる)への進学を希望していたため、日本で大学卒業資格を得てから米国メディカルスクールを受験しようと考えていましたが、果たしてどのような大学を出るのが良いのか、答えが出ないまま高校時代を過ごしていました。英語で真新しい学問を習うことのハードルの高さはさすがに自覚していましたので、「日本の医学部で医学を学んでから米国で学び直そうか?とはいえ日本で医学部を出たら米国でメディカルスクールに行く気になるのか?」等々、無限ループの自問自答を繰り返しつつも何となく日本の医学部受験に備えていた高校3年生の夏休み明けのこと。物理の授業で放射線を学び、初めて、医療以外に「面白い、学び続けたい」と思える学問に出会った気がしました。さすがにその時点から理学部物理学科への転向は受験準備が間に合わないだろうし、ここで医療の道を断つ気にもなれない…と考えていた時に見つけたのが、「放射線学科」という道。これなら「ほどよく医学で、ほどよく放射線で、ちょうどよさそう」と考え、進学を決めました。大学卒業後にメディカルスクールを受験するつもりで進学したものの、在学中に「医師よりも先に検査結果(画像)を目にするのが放射線技師である」こと、「技師の撮影する画像によって診断や予後が変わってくる」ことを教わったことがきっかけで、少しでも早く臨床現場に出たくなり、診療放射線技師として日本で働く道を選んで今に至ります。

JACL Day of Remembrance
 米国滞在中、プライベートでは多くの時間をJapanese American Citizens League (JACL, 日系米国市民の会)の皆さんと共に過ごしていました。日本人・日系人の強制収容所の内部や解放後の壮絶な経験談を生で伺う機会にも恵まれ、日本出身者として、また在米日本人として、米国で初めて知る日系人史について非常に深く考えさせられました。

スタンフォード大学研究員に至るまでの経緯

 日本の臨床現場で働くことに不満があった訳では決してないのですが、やはりアメリカで学ぶことへの思いはくすぶり続けていたようです。2006年に日本放射線技術学会がスタンフォード大学での研修事業を始めたことを知り、翌2007年に2期生としてこれに参加させて頂きました。1週間だけの研修でしたが、色々な意味で非常に刺激を受けた研修で、帰国する頃には「本格的にここに来たい」と思っていました。この研修の間に、当時スタンフォード大学循環器内科のFacultyをされていた寺島正浩先生(現在は医療法人社団CVIC理事長)をご紹介頂いたことがきっかけで、寺島先生を頼って再び渡米したのが2009年。この時は日本放射線技術学会の短期留学制度を使わせて頂き、Visiting Researcherとして、循環器内科のDr. Michael McConnellの研究室に所属していました。在籍中は同じ循環器画像グループの他研究室の実験にも加わらせて頂き、とても充実した日々を過ごすうちに「ここでこの人たちと働きたい」との思いは一層強くなりました。そこで、参加していた研究のPIであるDr. Phillip Yangに交渉し、今度は長期で戻ることになったのです。とはいえ、当時の私は大学院にも進んでいない学士の身分でしたので、米国で働くためのビザ取得は非常に大変でした。たとえボス (Phil) が雇用したいと言ってくれても、大学が同意しなければそもそもビザの申請ができませんし、また米国が就労許可をくれなければビザは発給されません。決して簡単な道ではありませんでしたが、熱意だけは誰にも負けていなかったようで、本当に多くの方々のご協力によりどうにかビザを取得することができ、Research Associateとして再びスタンフォード大学に戻ったのは、帰国から3年後の2012年でした。念ずれば思い通ず。多くの素晴らしい出会いに恵まれ、学位のない外国人研究者の雇用という難題を実現して頂きました。多大なるご尽力を下さった周囲の皆様へ感謝の思いは、今でもとても言葉で表しきれません。

ある一日のスケジュール

【米国編】

5:00 起床

6:00 出勤

7:00 前臨床実験(MRI → 血管造影 → MRI)

15:00 片付け・休憩

16:00 Biologist業務(幹細胞の培養・分析)

20:00〜22:00 夕食・PC仕事

22:30 帰宅

0:00 就寝

【日本編】

6:30 起床

7:30 出勤

8:30 クリニック勤務

12:30 昼食・移動・PC仕事

14:30 大学勤務

19:00〜22:00 打ち合わせ・夕食

23:00 帰宅

23:00〜1:00 PC仕事

1:00 就寝

日本とアメリカ、診療放射線技師の違い

Napa Valleyの朝靄 カルフォルニアワインの産地 Napa Valleyにて、気球に乗って撮影。早朝に上空を飛んでいると、一帯に広がる朝靄と、それが明けていく様子がよく見えて、とても幻想的な光景でした。

 これはとてもよく聞かれる質問なのですが、日本とアメリカでは放射線技師制度が違いすぎて、何からお伝えしたら良いのかわからない程です。そもそもアメリカには「放射線技師」という資格はありません。CT技師、MRI技師、核医学技師、等々、モダリティごとに分かれているそれぞれの技師の総称が放射線技師なだけです。米国人技師がtitle(氏名の後ろに記載する、称号のこと)に「R.T.」と書くため、それがRadiologic Technologist(放射線技師)の略で「放射線技師」という表現が一般的だと思われている方が多いようですが、正しくはR.T.とはRegistered Technologistの略ですので「技師」でしかありません。(ちなみに看護師はRegistered NurseでR.N.と称します)。私も米国で自己紹介する際に「Radiologic Technologist」と名乗ると、必ず「何のTechnologist?」と聞かれ、その都度日本の放射線技師制度の説明をしたものです。

 違うのはもちろん資格だけではありません。教育制度も業務内容も違っており、とてもここでは書ききれないほどです。それらを経験してきたことが私自身の特異性だと自負していますので、その辺りの情報発信をライフワークにしていきたいと思い、現在も色々な活動を通して情報の発信に努めていますし、また今後もこれを継続していくつもりです。

アメリカで働く中で得た知見

 私が在籍していた研究室グループは、循環器疾患の幹細胞治療を研究の軸としています。私自身も、細胞培養から動物への細胞移植を経て臨床研究に至るまで、幅広いフェーズの研究に携わらせて頂きました。おかげで、トランスレーショナルリサーチ(橋渡し研究)と呼ばれる、基礎研究と社会実装(医療分野では臨床応用)を結ぶ研究の重要性と面白さを実感できたことは、この研究室ならではの経験だったと思います。日本で医療職に就くにあたり、自身の視野が狭くならないようにと気を付け続けてはいましたが、米国での経験は期待以上に視野が広がりました。米国で研究を続けていく上での学位の重要性も痛感し、学位取得に向けて帰国したのですが、博士課程の専攻分野の選定にも米国での経験が非常に大きく影響しました。「広い視野を持ち、多角的に物事を考えろ」と幼少期から両親に説かれ続けていましたが、その重要性や必要性は、米国生活を経て一層強く感じるようになったように思います。放射線技術学を深めるのではなく、医療レギュラトリーサイエンスという新しい分野に挑戦し、世界を広げる道を選択したのです。

 「医療レギュラトリーサイエンス」とは聞き慣れない方がほとんどかと思います。詳細な説明は割愛しますが、一言で表すならば「医療者、関連企業、行政(規制当局)、患者とそれぞれの立場から考え、それぞれの立場において医療全体が良くなるよう調整するための科学」とでも言いましょうか。幅広い見識や俯瞰的な視野、バランス感覚や国際的な知見が必須となる学域です。研究対象には医薬品や医療機器の開発や規制はもちろんのこと、医療制度も含まれます。そして私自身が現在主に研究対象としているのが、診療放射線技師の制度についてです。米国勤務を経験したからこそ感じる諸々の所感を、最大に生かすことのできる研究分野であると自負しており、これが自分にピッタリな分野であることを日に日に強く実感しているところです。

大学院時代の研究発表 レギュラトリーサイエンスの道に進むと大学院に放射線業界の方はほぼ皆無。写真は初めて異分野の学会で発表した際のものです。共同研究者である同期が皆それぞれに本業(医療機関、企業、アカデミア)が忙しい中、発表時間に合わせてスケジュールを調整し会場に集合してくれた団結力&心強さは、いつまでも有難く、忘れられない思い出です。

海外の研究員に挑戦して変わったこと

 何度も米国で働き、帰国後も関係を保ち続けていると言うと、アメリカが大好き(=日本が嫌い)なのだろうと誤解を受けることが非常に多いのですが、実際のところ、私のモチベーションはむしろ逆です。日本が大好きですし、日本の診療放射線技師のためになるような活動をしたいと考えています。人間誰しも、外に出るとアイデンティティが芽生えるとはよく言ったもので、私自身も、米国へ出たことによって、日本の良さも悪さも、より一層客観的に色々と考えるようになりました。

 これはあちこちの講演でも申し上げていることですが、日本の診療放射線技師は本当に優秀です。それが日本国民の皆様に知られていないだけでなく、診療放射線技師たち自身が気付いていないようにも思います。最初の渡米でそれを強く感じたものの、その真の価値を広められるような活動や発言は、外部から行ってこそ影響力があると考えました。だからこそ私は、「日本の(診療放射線技師の)ために、外(米国)に出る」という道を選んだのです。2014年の帰国以来、今現在も日本にはおりますが、米国(Stanford 他)との関係は保ち続けています。これまでもこれからも、自身の居場所としては国内外を問うことなく、日本の放射線医療業界のために、医療レギュラトリーサイエンスという新たな道での活動を続けて行きたいと思っています。

「驕ることなく誇りを持ち、卑屈になることなく謙虚であれ」

 世界各国に様々な文化や習慣がありますが、いずれの国や地域の方にも通じる精神だと思います。(特に日本の文化において)横柄さや謙遜が批判されるのをよく見聞きしますが、おごりたかぶることと誇りを持つことは違います。また卑屈であることと謙虚であることも別です。誇り(自信)を持って仕事を遂行すること、またその姿勢や成果に関して謙虚であることは、あらゆる文化的背景の方々に共通して重要であると感じます。世界中から様々な価値観を持つ研究者が集まるStanford大学において、日本人である私が皆さんから温かく受け入れて頂けた理由は、この姿勢を心掛けたためであったと信じています。