働き方ノートVol.5 東雲優真(小澤輝充)先生

2022.03.03

Ai撮影に取り組んでいた診療放射線技師が一転して俳優の道へ。
全く違う別の仕事ですが、どちらも同じ心持ちで臨んでいます。

診療放射線技師
東雲優真(小澤輝充)先生
※俳優活動は芸名の東雲優真、Ai技師は本名の小澤輝充で行っています。

■ 仕事編

Q Ai技師になった動機、やりがい

 私がAi(Autopsy imaging:死亡時画像診断)という言葉に初めて触れたのは学生の時分でした。講義の中で診療放射線技師の仕事の中の一つとして取り上げられていたAiの分野、その「死亡時」画像診断という言葉に、私は非常に興味を惹かれました。というのも、当時の私は「死」ということについて自分なりのアプローチを探している最中だったのです。私の父は、私が13歳の夏に亡くなりました。原発不明の腺癌がリンパ節に転移し全身を蝕んでいたのだと母からは聞いていますが、当時の私にとっては病状の詳細など些細な事で、日々弱っていく父の姿をただひたすら目に焼き付けるばかりでした。亡くなった後にこそ、なぜ死んでしまったのかと「死因」が気になって母に尋ねましたが、そもそも母もショックだったことでしょう、「わからない」とだけ返されたことを覚えています。後々に教えてもらえましたので今でこそなぜ亡くなったかを上記のように書けるのですが…。
 そんなことから当時の私は、「死因」だけでなく亡くなった人の情報をもっと残したい、残すことが出来たらそれだけで嬉しいし気持ちの整理もつけやすいのにな、などと考えていたのです。そんな中でAiという分野を知ったものですから、瞬く間に私はその言葉の虜になってしまいました。Aiは何ができるのか、今後Aiはどうなっていくのか、私はAiでどうしていきたいのか。関連する書籍を読み、意義・目的・現状を知っていく中で私は、Aiを撮影する診療放射線技師になりたいと強く願うようになったのです。
 私が勤めていたAi撮影施設はAi撮影業のほかに、家族がいない高齢者の身元引受事業や葬儀業も行っておりました。私はAi撮影などの診療放射線技師としての業務以外に、身元引受人として入院の手続きをしに行ったり、日々の生活のサポートをしたり、亡くなった後の死後の事務手続きをしたり、霊柩車を運転してご逝去された方をお迎えに上がったり、葬儀の打ち合わせをしたり…と、実に多種多様な仕事を行っていました。我ながら診療放射線技師としてはかなり珍しい職歴を持っていると思います。通院に付き添う仕事、病院で患者さんと接する仕事、ご逝去され病院を出た後の仕事、それら一連の流れを経験しているのですから。
 様々な仕事をこなしながらも都度依頼のあるAi撮影には信念を持って取り組んでおりました。公衆衛生の向上、犯罪の見逃し防止、Ai分野の発展の一助になるというやりがいだけでなく、Ai撮影が残された方の為になると実感することがあったためです。それは、読影レポートでわからない用語があるとのことで撮影した担当者としてご遺族様とお話した時のことでした。曲解とならないよう用語の解説のみに努めましたが、ご遺族様は目の前で死因でもなんでもない、たった少しの情報に喜ばれ、その事実がお気持ちに安らぎを運んでおりました。死因に結びつかなければ撮影する価値がないなんてことはないのだと思えたと同時に、これは誰かのためになる仕事なのだと感じた出来事でした。

半年ほど前に撮影したポートレート

■ プライベート編

Q俳優業をはじめた動機、やりがい

 そもそものきっかけを辿ると、高校に入学したての私が何の気なしに入部してしまった演劇部に端を発します。今にして思えば、たった一つの部活に大きく影響を受けてしまったなと感慨深いものです。部員全員で一つの作品を協力して作っていくことの、なんと難しくなんと面白いことでしょうか。それぞれ別々の環境で育ち別々の感性を持ち合わせている人間同士で力を合わせ、意見を交わし、時に喧嘩になるほどの議論をしながら舞台を作り上げていく。作り上げるだけならある程度で妥協して折り合いをつけることもできたでしょうが、演劇部にもご多分にもれず大会があったために、自己満足ではとても終えられませんでした。苦心して作った作品が結果として「勝ち上がった作品」と「勝ち上がれなかった作品」に分けられてしまうのです。よい結果を得るために、高校生同士コミュニケーションに四苦八苦しながら、各部門の技術や演出に趣向を凝らし、部員全員で一つの作品を完成させる。これが非常に辛くもとてもとても楽しいものでした。そして知らぬ間に、舞台に立つことの面白さも私の心に刻み込まれていったのです。
 演劇の沼にはまった私は高校卒業後も仲間と劇団を立ち上げて劇を作り続けました。しかし前述のようにAiに囚われてしまったために、劇団を抜け就職上京と相成ったのです。しばらくは仕事に忙殺され演劇と関わりのない生活を過ごしていたのも束の間、友人が出ている舞台を観劇したことをきっかけにくすぶっていた思いが再燃し始めます。その熱量のまま友人に話をして同じ劇団に入団、再び舞台に立つことが叶いました。
 しかし公演を終えたあとも熱は収まりませんでした。東京の環境で俳優としてどこまでいけるか挑戦したい、という気持ちが芽生えたのです。いえ、芽生えてしまったのです。もし本当に挑戦するのであれば、自分の思い描いていた人生設計図を大幅に変更する必要があります。踏み出すには大きな覚悟が必要でした。もともと上京までしてやりたいことがあったのにそれを諦めて一から挑戦するのか、と日々自問自答し続けていました。そんな迷いを抱えながら半年を過ごした頃でしょうか。「この思いを抱えながらこのまま生きていくのでは後悔し続けるかもしれない」と気持ちが固まったのです。そこで勤めていた病院を辞め、俳優として活動を始めたのです。
 演じるということの楽しさはとても語りつくせません。舞台に立って観客の視線を浴び、指先まですべてを使って表現し観客の心へ訴えかける。私の吐き出した言葉で私の立ち居振る舞いで、誰かの心を動かしたりしばし頭の中を占領したり。温かい気持ちにさせたり、悲しい気持ちにさせたり、少しモヤっとさせたり。日常話す身近な人だけでなく、作品を通して見知らぬ多くの方へ影響を与えられることが出来るというのは、なんて贅沢な事でしょう。私は観てくださった方々に「心の栄養」を与えられるような俳優になりたいのです。
 現在は、舞台だけでなく映像作品にも挑戦しています。しかし、まだ大きな役をもらうほどの経験はなくレギュラーエキストラがせいぜいで、その他は小劇場での舞台やモデルとして撮影に参加するなどで経験を増やし技術を磨いています。

きっかけとなった舞台の独白のシーン

Q 2足の草履となって変わったこと(生活スタイルなど)

 俳優業としてオーディションや撮影現場に参加する傍らで、検診車内にてレントゲンを撮影するアルバイトに従事しており、また時折以前勤めていた施設でAi撮影のアルバイトも行っています。まさに俳優業と診療放射線技師の二足の草履を履いている状態です。そんな日々の生活で一番気を遣うのはスケジュール管理です。アルバイトに関してはシフト提出制なので事前に予定を立てる必要があるのですが、撮影やオーディションはそうは行きません。撮影現場に参加するまでにはまず書類選考があり、その後にオーディションという流れが基本です。オーディションに通れば後日、撮影現場に赴くという形ですね。しかしこのオーディションも撮影も、急に日程が決まることが多いのです。前日に「明日来られるか?」と連絡が入ることもあれば、天候により外での撮影が困難になり日程の変更を余儀なくされることもあります。すると当然、撮影の日程に合わせアルバイト先にお休みの伺いを立てねばなりません。現在の勤務先は面接時にその旨をお話しし了承いただき、急なお休みでも調整してくださっています。本当に感謝の念に堪えません。一時、勤務先に迷惑をかけてばかりもいられないと、シフト数を減らしたこともありますが、結果その月の収支が非常に苦しくなり俳優業に悪影響を及ぼすこともありました。うまくバランスを取るために、日々月々工夫の連続です。

Qある一日のスケジュール

 俳優業の日か診療放射線技師のアルバイトの日かで多少様相は変わってきますが、どちらであっても朝は早いことが多いです。また、アルバイトの後に舞台の稽古に行ったり演技レッスンに赴いたりということはあります。撮影の日は基本終日空けておく必要があります。直前になって現場入り時間が変更になったり、何かしらの要因で進行が上手くいかず撮影が延びたりするためです。極端な例ですが、朝に現場入りしてその日の撮影がすべて終わったのは深夜12時過ぎ、ということもありました。現場ごとに状況や環境は違うため、臨機応変な対応が求められます。

鉄骨ボレロ第8回公演「三原色メタファー」より(著者は左)

Q座右の銘

 座右の銘は「一期一会」です。演劇を行っていて、特に強く芽生えた気持ちですね。この言葉が私の気持ちの根幹を作っています。
 演劇は「生き物」です。たとえ同じ俳優、同じスタッフ、同じ観客で同じ劇を公演したとしても、機械ではないですから全く同じものにはなりません。間違い探しのような小さな違いにとどまらず、思わぬハプニングによりアドリブが入ることもあれば、セリフの間や抑揚がちょっと違っていたりすることで、受け取り手の感じ方が変わってしまうことがあります。公演途中で演出が変更になることもよくありますし、その時々の観客の反応によってよい演技が引き出されたり、逆に固い演技になってしまったりするのです。であればこそ、その日その回の公演がどんな「生き物」なのかは終わってみるまで誰にもわかりません。二度とないその公演を少しでも楽しんでほしいと、ひた向きに取り組むばかりです。
 患者様、受診者様にも同様の心持ちで接するように心がけています。二度と来ないその瞬間の撮影を一生懸命に取り組む。目の前の方のお気持ちを慮って接遇する。私にできるのはそれだけで、そしてそれをとても大切にしていきたいのです。そのために何事も日々精進しなければと思うことしきりです。
 俳優業であっても診療放射線技師業務であっても、私という存在がたった少しでも誰かの「なにか」になれるよう活動を続けていきます。どうかもしよろしければ、こんな俳優で診療放射線技師な人がいたなと記憶の片隅に留めておいていただけましたら幸いです。
 稚拙な文ではありますが、この文章が読んでくださった方の「なにか」になりますように。

座右の銘は「一期一会」