働き方ノート Vol.12 原澤秀行先生

2022.08.01

修復師から診療放射線技師へ
自分の血管造影の画像を見ているうちに、人間の体に興味が沸いた

■仕事編

・修復師になったきっかけ

 昔から母が着物を縫っていたもので、その柄の日本画や和柄には幼少期から慣れ親しんでいたのですが、小学校の時に京都の美術館で見た速水御舟(はやみぎょしゅう)の「炎舞」(図1)(※1)という日本画に感動して絵の世界に興味を持ちました。

 その当時は大阪に住んでいたのですが、中学の時に埼玉に転居し、「彩光舎(さいこうしゃ)美術研究所」という美術予備校に入り、私の美術の道が始まりました。そこでは水彩や油彩は勿論、パピエコレ(※2)やモザイク(※3)などを学びました。

 そして、高校2年からは本格的な美術大学への受験プログラムに入り、高校3年の時は出席日数ギリギリまで休んで絵を描き続けていました。

 そうして紆余曲折4浪の末、武蔵野美術大学短期大学部(2年)に入学しました。22歳の時でした。

 大学では、日本美術史も勉強していたのですが、その先生が日本美術員の方で、日本美術に興味があるとお話した
所、一筆書いてくださって、2年生の時の古美術研究旅行(奈良、京都の1週間旅行)の合間に一人抜け出して、京都国立博物館へ研修に行かせて頂きました。

 その時、丁度、「蓮華王院 三十三間堂」の仏像の平成の修復をやっていまして、その広い部屋には30人程の仏師がいらっしゃって仏像の解体修復をされていました。

 私がその部屋に入った時、その部屋に詰まった緊張感が凄くて、今まで感じた事のない空気に圧倒されました。そして、自分もこういう空間の中で仕事がしたいなぁと思い、修復師という職業に興味が湧きました。

 しかし、短大は2年で終わりですから、その年で卒業でした。なので、この後どうにかして修復の勉強が出来ないかと先生に相談したら「聴講生」としてなら、この後2年残って勉強する事が出来るという話を頂きまして、これしかないと飛びつきました。

 その聴講生としての2年間は、絵画組成室という部屋で必死に修復の基礎、絵、写真、版画等の組成を勉強し、先生からは「お前は4年勉強したといってもよい」と言われるほどでした。

 その後、学生時代にバイトで入っていた修復の会社に就職しました。ですが、修復といっても美術には彫刻、絵画、そして西洋画、日本画など色々あり、それぞれが専門業なので、自分はどれを専攻すればいいのか悩みました。

 結局、自分の美術への道は小学生の時、日本画に感動した事から始まっているので、やるならば紙ベース、和紙がいいと思い、私は日本画の修復を専攻しました。

 当時、未だオープン前だった江戸東京博物館に展示予定の日本画や早稲田大学坪内博士記念演劇博物館にあった歌舞伎の浮世絵の修復をしたのを覚えています。

ちょっと修復の専門的な話になりますが、浮世絵は何重にも塗料を重ねて作られるのですが、経年劣化によりその塗料が寝てしまい、色の発色が悪くなってしまいます。なので顕微鏡で見ながらその色の粒子をナフサ系ジェット燃料(航空機燃料)の気化を利用して、一個一個立たせていきます。これが気の遠くなる作業で、一日終わる度にフラフラになっていました。因みにB4くらいのサイズの絵1枚に約2か月程掛かりました。

図1「炎舞(1925ごろ)」速水御舟

 その他、レオナルド・ダ・ヴィンチの装丁やフィンセント・ファン・ゴッホの絵の修復もしましたが、あの有名な作品が目の前にあり、そして修復とはいえ触れることが出来るのかと思うと流石に手が震えましたね。

 また、就職した会社は修復業務だけでなく、装丁や額装の業務もやっていたので、漫画展の展示の為、手塚治虫先生、ちばてつや先生、藤田和弘先生の生原稿も触れた事があります。手塚先生とちば先生は当時の作風だと思うのですが、トーンを全く使ってない技法に驚きました。そして藤田先生においては、私は「うしおととら」を全巻持っているので、そのインク盛り盛りの力の肉厚生原稿に感動したのを覚えています。

※1 速水御舟:大正-昭和初期の日本画家。代表作「炎舞」「名樹散椿」等がある。
40歳の若さで亡くなってしまった事と寡作な作家であった事、そして関東震災で多くの作品が消失してしまった等々の理由の為、現存している作品は600点ほど。

※2 パピエコレ:フランス語でキャンバスに紙や木片など
貼り付けて作成されたコラージュ作品、およびその技
法。

※3 モザイク:石やタイル、ガラス等の小片を寄せ集め埋
め込んだ絵や模様を表す装飾美術、およびその技法。

 

 

・診療放射線技師になった動機、やりがい

 武蔵野美術大学に入って1年目、私は学費を稼ぐ為に当時コンビニで仕入れのバイトをしていました。そのある日の帰り道、自転車に乗ろうとしたら、バランスを失って倒れてしまいました。何度乗り直しても倒れてしまうので、結局家まで自転車を押して帰りました。帰宅したら真っ青な顔の私を母が心配しましたが、疲れのせいかな。寝れば治るよとそのまま寝てしまいました。

 しかし翌朝、私は起きれませんでした。

 正確には、右半分がまるで自分のものではないかのように切り離され、動かせなかった為起きれなかったのです。私は脳梗塞の疑いで自治医科大学病院に救急搬送されました。

 そして、私はここで、約一か月間、病名不明の状態で入院治療することになりました。

 症状的には明らかに脳梗塞のはずなのに、色々検査をしても、脳に梗塞部位が見付からなかったのです。

 そして一か月経った時、当時あまり導入されていなかったMRIをさいたま岩槻病院脳神経外科で受ける事となりま
した。そして、そこでやっと私の梗塞が見つかりました。それは脳ではなく、右椎骨動脈でした。左は太く蛇行して
いて、右は細いという奇形も見つかりました(後天的か先天的なのかは分かりませんが…)。

 その後のIVR中、自分の血管造影の画像を「人間の体って面白いなぁ」と驚きと興味で見ていたら、その姿が余程
熱心に見えたのでしょう、施術されている医師が説明しながら施術してくれまして、人間の体というものに興味が湧

きました。そして更にそんな姿を見ていた診療放射線技師が「やってみれば?」と声をかけてくれました。診療放射
線技師になる動機というか興味を持ったのはこの時かと思います。

 しかし、その時の自分は美術の道しか頭になかったので、無事退院してからは又、美術の世界に戻っていきました。

 それから数年後、前述のような時を経て、私は修復の仕事をしていたのですが、正直、修復の仕事では食べていけ
ず、毎日フラフラになりながら日々仕事をしていました。

 そんなある日、仕事帰りの私を弟が車で迎えに来てくれました。弟は某大学病院に勤めている診療放射線技師です。

 その時、正直、弟が私を迎えに来るなんて珍しいなと思ったのですが、その車の中で「兄キ、もうその仕事辞めたら?」と言われました。その頃の私は周りから余程辛そうに見えていたのでしょう。弟としても、私が幼少期から憧れていた美術の仕事を辞めろというのですから、勇気が必要だった言葉だと思います。その後、色々弟に諭され、診療放射線技師への道を勧められました。これが診療放射線技師になった動機といいますか出来事です。26歳の9月でした。

 そこから私はがむしゃらに勉強しまして、診療放射線技師学校に合格しました。学生時代は紆余曲折あったもの、今や兄弟揃って診療放射線技師になりました。今でも弟に頭が上がりません。

雑談

 ところで、皆さんは霊の存在を信じますでしょうか?よく人形に霊が憑くという話は聞いたり、映画でもよく題材にされるのでご存知かと思いますが、実は絵にも霊は憑いているんです。

 そんな体験談をここで一つさせて下さい。

 それは私が某美術館で、200~300号(約3×2m)程の中世時代の油彩画の修復作業をしていた時の話です。

 作業は、スライドするラックに、本棚の本の様に保管されている絵を引き出して行います。私は当時、円滑な作業の為に油彩画を2枚引き出して左右同時に修復作業をしていました。なので、そこは左右を2~3mの大きな絵の壁に挟まれる狭い空間です。

 そしてふと何かの視線を感じて目を向けると、そこには西洋風の華やかなドレスを着た女の子が立ってました。「え?なんでこんな所にこんな子が…?」左右の絵の向こうは壁です。人が入り込める隙間なんてありません。ましてやこんなドレスの子なんて…と思って見ていたら、「見ちゃだめだ!」と後ろから叫び声がして振り返ると、そこには先輩修復師の方が立っていました。

 「良かった、間に合って。目を合わせると魂持っていかれちゃうぞ」と言われ、「え?何の話?」と振り返ると、そこには誰もいなかったのです。勿論入ってこれる隙間も無いので、出て行く隙間もありません。

 その先輩は霊感のある方で、その時に初めて、絵には魂が宿っていること、そして霊の眼は見ていけない事などを色々教えてくれました。

 その時作業していた絵がマリーアントワネット時代の宮廷画だったので、あれはマリーアントワネットだったんじゃないかなと勝手ながら思っています。

 勿論、信じるか信じないかは自由ですが、私が体験した不思議な話です。

好きな映画

・「トスカニーニ(1988、イタリア/フランス)」

 浪人時代、絵を描く事に疲れて映画館に入り浸っていまして、その時に観た映画です。話もですが、映像が又素晴らしいのです。

・「ショーシャンクの空に(1994、アメリカ)」

 あのホラー作家のスティーブン・キングが原作という驚きは勿論の事、後半の畳みかけるどんでん返しがとても好きです。その分前半が辛いですが…

ある一日のスケジュール

《修復師時代》
6:30 起床
8:30 出勤、直ぐに朝礼、会議
9:00 道具を揃えて修復作業開始
12:00 昼食
13:00 美術館、博物館での現場作業舞台と合流(装丁作業、看板取付) 休憩を取りながら作業
19:00 現場作業終了(現場のチェック含む)
20:00 会社に戻る
20:30 退社
2:00 就寝


《現在(診療放射線技師)》
6:30 起床
8:30 出勤、仕事の準備(CT、MRIの拭き掃除等)
9:00 午前仕事開始
12:00 昼食
13:00 会議
14:00 午後の仕事開始
18:00 仕事終了
19:00 帰宅


我ながら随分生活スタイルが変わりました…(^^;

「阿留辺幾夜宇和」
 京都の神護寺の明恵(みょうえ)上人の言葉です。
「阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)~自分が置かれた立場で自分
らしく、当たり前に生きる最善を尽くせ」
 今思えば、私の人生を言っているみたいですね。